2008.12.14 Sunday
踊り明かしたあとに見える風景〜村上春樹/ダンス・ダンス・ダンス〜
「ステップを踏み続けるんだ、人が感心してしまうくらいに」
「羊をめぐる冒険」、と位置づけられます。
4年…、時間は経過し、主人公はあの、特殊な体験から逃げるように現実の中で仕事をこなしていたけれど、頭の中で「いるかホテル」の存在が大きくなってます。
今、思えば、耳のステキな女の子(娼婦名:キキ=【危機??】)は村上春樹さんの小説自体に大きな変革をもたらしたキーパーソンだと(だったと)いえます。
彼女、キキの存在がより神秘的な扱いになり、物語は進みます。
人のお金でハワイにだってバカンスにだって、行きます。
後半、「いるかホテル」でねじまき鳥クロニクルで登場する、壁抜け、の予兆ともいる行動を主人公はとります。
これは何度読んでみても、鳥肌ものです!
イメージの臨界点に達するような強烈さです。
狂おしいまでの豊穣なイメージの原風景!!!
抽象的ですが、ブワアーーッと虚実ない交ぜの世界を見せつけられました。
現実とも、幻想ともつかないような、リアルな「夢」を見せつけられました(確かに僕は村上ファンであることは認めますが、村上信者ではありませぬ。批判的な読者としての位置は崩したくありません)。
世界がバラバラに音もなく朽ちてゆくなかで、高速の、生き物や植物の生死の早回しの映像のような世界をみたんです。
物語のテーマはやはり「羊〜」と同じですが、より具体的に現実的な事例に則して「高度資本主義社会」をサラリサラリと扱っています。
マセラティとか象徴的ですね。
そして、ここでは、死が重要でもあります。
資本主義と、死。
「完全に死んでいる」なんて言い方が出ますね…。
死はそこにある。
ハワイに死の部屋、というのは絶妙なセッティングです。
わざわざ「僕」=五反田クンという文章にも気をつけるべきです。
資本主義の恩恵を受けて「間違ったこと」をしてしまっているという図式は何も特定の人だけに当てはまるのでない、という風に解していいでしょう。
ユキもアメもデリック・ノースも牧村托も一見お化け家族に見えますが、マイノリティという風な見方もできると思います。
ユミヨシさんは、物語においてとても読み手に近い存在です。
チョット神経質で、勇敢。
しかし彼女はあちらの世界に行ってしまいます。
ふう。
救いのない物語だと思います。
すべてが徒労に終わるような感覚。
それでもダンス…。
あまり開放感はないです。
村上さんは楽しんで執筆できたとどこかで語っていましたが!
まるで「kid A」のoptimistic…「できる限りのことをすればいいんだよ」…OK。
食事の文章がぐだぐだと続くところが、気持ちを落ち着かせてくれました。
ダンス・ダンス・ダンス〈上〉
ダンス・ダンス・ダンス〈下〉
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速読家の読書感想 |
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2008.12.12 Friday
目の前に立ちはだかる「壁」を超えるためのヒント〜出口汪の大人のための超スピード勉強法〜
最近、速読本コーナーの棚の中に「出口汪の大人のための超スピード勉強法」というタイトルの凡庸な本を本屋で立ち読みし、「おやっ?意外に読ませるなあこの本!」と感じて購入しました。
凡庸なタイトルとは裏腹に、読ませる本なのです。
正直この本のタイトルは忘れてもらって構わないです。
理路整然とした言説に触れていただきたい。
大事なものは内容ですね、内容。
ブログなどでテキストを書いたりする方などの思考力の強力なサポートになり得る本です。
筆者の体験談を交えながら(団塊の世代の少し下という、年代的な特徴が顕著です)、示唆にとんだ教訓を見つけることが出来ると思います。
地味な本ですがなかなかの良書。
ごくごく最近の時事ネタや著者の仕事との関わりで勉強法の何たるかを教えてくれます。
僕はぐいぐい引き込まれて読みました。
理解させる文章も上手いですねぇ。
さすがは元カリスマ予備校講師!
読み方によっては、定価以上の収穫が得られると思います。
論理、言語、壁、に関して卓越した見解が記されています。
<世間で考える力をつけよう、という宣伝文句を聞いて、あなたはその宣伝文句の問いかけ自体に何も疑問を抱かないままなのでしょうか?>
この問いかけは皆さんへの、僕からの挑発的な問題提起ですが、それを解くヒント
がこの本には秘められている、と思います。
現役退職された方で趣味を探している、という方でも、営業職で日々雑務に追われているようなサラリーマンの方ででも、工房職人でも、公務員にもすべての人に勧められる本ですね。
でっかい本屋で検索して見つけてみて下さい。
出口汪の大人のための超スピード勉強法
2008.12.11 Thursday
「羊」をめぐる冒険!!!!!!!〜僕と「僕」と村上春樹さんと〜
僕の大好きな作品。
凄くエンターテインしてると思います。
また、この物語は「自我の成長」という文脈でも読み取ることが出来ます。
(近代日本の成長の縮図、という文脈で捉えるのもいいでしょう。)
まあ、難解で不思議な世界観は顕著ですねぇ。
ストーリーは単純ですがより深くメタフォルを読解するのがムツかしいし、また、興味深いところでもあります。
前二作に登場していた「鼠」の消息もこの作品で、…はっきりします。(これ以上読むと小説のネタバレの危険がありますんで、ご留意下さいね)
…ベアビールの凡庸な分析…
……「鼠」とは「僕」と似て非なる ドッペルゲンガー
の様なものだと思います。
10代の「僕」自身の記憶ですね。
物語後半で鏡と対峙して主人公の意志の所在が曖昧になるシーンがありますが、とても象徴的だと思います。
ユング
の言うオルターエゴの領域ですね。
精神の世界の描写は、ええ、逸脱です。
羊男も、戦争を知る上の世代の記憶やら、何やらを凝縮し閉じ込めた「媒体」という存在に解することも出来るかと思います。
だから、羊男はワケの解んない着ぐるみのような格好でいらだったり、動物のように主人公が押しては身を引いたり、主人公が引いたら逆に寄ってきたりするんだと思います。
まるで物語前半に登場してくる広告産業そのものですね、羊男は。
とてもキャラクタライズされた存在だし…。
じゃあ、北海道の鼠の父親の所有だった別荘は何を意味するのでしょう。
居心地のよい住処だというのは、小説を読めばすぐわかります。
(→これを子供期のモラトリアムと解します)
でも、一歩外を出たら、人の住める場所ではないぐらい、厳しい環境だとわかる。
(→これをキビシい世間の荒波と凡庸に、解します)
それを、主人公は(彼と親しい人間で構成される)周囲の要請で爆破することを余儀なくされる。
(→人生の転換点、と解します。そこには感激も誇張もなく、ただ、通り過ぎるのみ)
主人公はお茶会に集まる、特殊な羊も、黒服の男も、既に死んでしまった鼠も、まとめて爆破することになっちゃいます。
→何を爆破したのか。
邪悪さや、欲望やらの人に取り憑きまとう、禍々しいものです。
ここに「鼠」の10代の記憶を包含するのは可能です。
彼の生い立ちは前二作で既に詳細に記されてます。
まるで資本主義社会の縮図のような、お金にまみれた記憶がそこにあります。
しかし、「僕」は資本主義的報酬を手に入れて、ジェイズバーに寄ったあと、川辺で泣いてしまいます。
すべてを爆破したのでもなく、鼠が羊に取り込まれかけた際のきっかけになった「弱さ」の余韻がエンディングに流れています。
しかし、もう「僕」は後戻りできない。
歩き出さなければならない。
悲壮感と疾走感の綯い交ぜになったような、優しい余韻。
不思議だな。
PS:耳のステキな女の子と別れてしまうことになってしまったのは残然だけれど、結局は理不尽に「僕」が追い返したも同然だ(この耳をイメージするだのはとても楽しいことだった)。
やっぱり身勝手だなぁ、主人公。
でも大好きな物語ですね!
羊をめぐる冒険
2008.12.09 Tuesday
ピンボールとの一期一会〜村上春樹/1973年のピンボール
「風の歌を聴け」に次ぐ村上春樹の30年前の小説です。
時を経て、出会いと別れを繰り返し、「靴箱の中で暮らす」ようになった主人公がモチーフ。
前作と比べれば、全体の設定が幾分か「分かり易い」内容に仕上がっています。
双子のペアは、(ブラックジャックの)ピノコみたい。
危なっかしい主人公を少しだけ安心してみていられる役回り。
アクセント。
このアクセントが、物語にどれだけ関わっているかは…あまり問題ないですね。
これはピンボールのお話であり、主人公が語る昔の女の子の追憶などは読者には共感以上の意味はないのだから。
コミュニケーションに関わるモチーフが、多用されているのが特徴。
物語上の出来事で…興味深いのは、配電盤の取り替え、その埋葬、鼠という愛に憂いだ人物の霊園に佇む描写を見てみても、生活そのもののゆるやかな変化の兆しが物語の通低音として響いています。
畜舎に整然と並んだピンボールや霊園の描写は単なる死の象徴として考えるべきではないのです!
青春という苦い季節をやり過ごし、その季節を生き延びた人間が今ある自分の過去の記憶を墓標に刻んでいるもの、と考えていいでしょう。
決別?EXACTLY!
現在進行で、今にも死のうとしているものを自分の手で、殺すということかもしれません。
(自ら決意し、町を離れる鼠の心情とも通じます)
そして殺すことで、生を取り戻す。
1973年という、「現在」の記録。
主人公も鼠も、同一人物、ペア、と解しても差し支えないでしょうが、一方はディスコミュニケーションを徹底することで生き延び、一方は街を離れることで死に絶えます。
紙一重。
とくに何が違うでもないんです。
この小説「1973年のピンボール」を未読の人には特に…失恋した人や、大切な人を失ってしまった人に読んでほしい。
凹んだ気持ちが少しはアップリフトするかもしれませんよ。
…なんだか、けっこうブルーな内容なのかも知れませんね。
基本的に一人称だし…。
2008.12.07 Sunday
何も世界の惨状を分かってない僕は彼の狂ったような言説にただ注意深く耳を澄ませる「メディア・コントロール」
以前ニュースを読んでいて、ふと本棚からチョムスキーのメディア・コントロールの本を取り出して速く読み切りました。
ちなみに気になったニュースというのは…(以下YAHOOの海外ニュースから一部抜粋。)
「10日付の米紙ワシントン・ポストによると、元米中央情報局(CIA)当局者のポール・ピラー氏が近く外交問題誌に掲載される論文の中で、ブッシュ米政権が既に決断していたイラク攻撃を正当化するため、米情報機関の都合の良い情報を利用したと批判していることが分かった。…」
歴史というものが事実であることとは結びつかない。
そこには財界とか一部の「健全な」民主主義を重んじる政治家や官僚の思惑も、影響します。
国内の話題に転ずれば、例えば、JR西日本の福知山線の脱線事故は痛ましい事件でした。身近な電車であんな事故がおきるとは想像さえ出来ない。
しかし…人は悲しい位に大事なことを教訓だとか反省だとか痛みだとかいうものを悉く忘れられる生き物(これは誰にも否定できない事実だ)。
僕は、人は、思考停止に陥ってしまったら終わりだと考えるんですね。
企業側に、権力者たちに飼いならされる「とまどえる群れ」と化してしまう。
常に考え、考え続けるポーズが大事だ!
今回テーマの、ノーム・チョムスキー著「メディア・コントロール―――正義なき民主主義と国際社会」。
一言でいえば過激。辛辣。
そして、感情的すぎます。
あきらかに、狂ってます。ちょっと怖いくらい。
たまに言っていることが理解できかねます。
しかし切実。
冒頭は権力者の視点で大衆をどうやってうまくコントロールするかというシニカルな視点で論じているんですが、徐々に、主体はチョムスキー本人に転じています。
テキストはアメリカ国民を念頭において書かれたものではありますが、……、日本人もアメリカの民主主義の恩恵を享受してることを考えると、アメリカ国民と立場はそう変わらない。
何の立場?
それはアジテーターに利用され続ける「とまどえる群れ」という立場。
日本の場合はこれに政治家、多国籍企業を除いた多くの企業が含まれるけれども…。
興味深い箇所をあげれば「テロ」の定義にふれた箇所です。
「テロというのは他国(アメリカ以外の国)が私たちにたいして行った場合だけで、それが慣例なのだ。私たちが他人にもっとひどいことをしても、それはテロではない…」
いうまでもありませんが、フセインは独裁者で、少数民族クルド人を大量虐殺したのは悪です。
しかしそれを当時のアメリカは協力にサポートしていました。
ネットでちょいちょい調べてみてもすぐにわかります。
90年代湾岸戦争が起こったときイラクにはイスラエルの軍事拡張の脅威がありました。
しかし…現代のニュースで過去アメリカがテロ組織を支援し或いは、民主主義の根付きつつあった政権をつぶして元の独裁国家に引き戻したいきさつなど…興味深い内容となっています。
ほんと考えて、考え続けなきゃ。
それも重層的に多角的に。
チョムスキーはそのヒントを狂気でもって伝えてくれます。
今、この現代を生きる上では、狂気に取り憑かれざるを得ないのかもしれません。