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@速読書事典

速読や読書術・書籍の大百科事典です。
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安部公房/死に急ぐ鯨たち

1986年新潮社から刊行された安部公房さんの「死に急ぐ鯨たち」。インタビューを載せています。
しかし、ここに書かれている内容はもう20年以上前のものですが、その中で語られている問題提起はまだ解決されていないのではないでしょうか。
この本を安部公房さんの小説解読の為の読解本としてではなく、彼の巧緻に論理的な文明批評や言語論、または美術批評に至るまでーー、今も再考の余地が大きいです。
「砂の女」「箱男」・・・、閉鎖的な世界の中での人間の不安を描いてみせるのが阿部さんの小説の特徴です。
人の根源的な不安という情念をイメージを通してひとつの現実味を帯びた世界へ展開します。これは村上春樹さんの小説の表現(メタファー)とは種類の違うものかと思います。

この本のタイトルも本の内容を上手く表現しています。「死に急ぐ鯨たち」。阿部さんが解説している箇所も文章の中にありますが、死に急ぐ鯨というのは、疫病などの可能性としてありうる死に対し、怯え戸惑う鯨からヒントをえたタイトルなのだと言うことです。進化以前哺乳類であった鯨の思考が混乱し(本能として記憶している)陸上での生活に思い焦がれて陸岸を目指し、呼吸困難となりの自傷(自殺)行為に陥ってしまうんだというエピソードです。

このインタビューが行われた当時は冷戦期の核時代における人間の心の中の不安を照射する意味も込められていたのでしょうか。
現在でも核の脅威は深刻なままですが、それ以上に現実的認識の希薄な核の脅威以上にすでに私たちの日常の隣り合わせにテロの影が潜んでいます。もちろん、80年代阿部さんが語った核時代の人間の不安、選別思想は根強く残っていますが、蒔かれた不安の芽はますます急激に歪な形に成長しているように思えてなりません。

この本は、何度でも読んでは閉じ、いろんなことを考え、また読んでみる・・・、そういった長い付き合いの可能な希有な本です。

本冒頭部での文明批評「シャーマンは祖国を謳う」では、人の集団化・個別化による国家と個の問題に及びます。副題の「儀式・言語・国家・そしてDNA」というのはそのまま、このテキストを読み解くキーワードとなります。
流れをお浚いすれば、動物から人は進化する過程で人は「ことば」を手に入れました。
「ことば」で以て人の思考は動物一般の画一的な条件反射より高次のコミュニケーション能力を手に入れた。
にもかかわらず、男女の結合や死別といった生理的現象を社会化するために人は進化の過程で「開かれたもの」であるはずの「ことば」を介して自分を儀式の中に組み込んでいくようになりました。
一度は「ことば」によって個々の分化が可能となったはずなのに、人は儀式の強化により、集団化をはじめます。
今もこの図式は変わっていないようです(ここでの『今』は長い余裕を持った時間軸を想定してます)。儀式の長である「シャーマン」が国家の行く末を歌いつづけ、「テレビ」や「ネット」や「セレブリティ・アイドル」といったボス(=シャーマン)の周りで疑似集団を形成しているようです。

一度「ことば」によって個の分化を可能とした人は再び、「ことば」で以て集団化し画一化されるーー。そのような論理を阿部さんは展開しています。

話が逸れますが、日本固有のアニミスムは今も日本の社会の至る所に息づいているかと思います。仏教の伝来以前からあるシャーマニズムとか、合理性とか論理性とはかけ離れた「野生」とかそういうものです。
例えば、不景気の時代に毛色の変わった「奇妙な」「風変わりな」政治家や占い師が表れれば、盲目についていってしまう気質が私たち日本人にはあるようです。阿部さんの例えを借りれば、あたかもブリューゲルの絵に出てくる盲人の群れの列に加わるような衝動です。
個性の尊重や調和・協調性を教育の場で子どもたちに伝える場合でも、その「個性の尊重」と「協調性」という考えが矛盾に満ちたものだということにはなかなか触れられません(或いは、矛盾そのものの存在に触れようとしません)。

日本に住む人の中に、元来ある野生なるものへの自覚。その性質への論理的分析と直裁的直感からの高次の「条件反射」(ことば、数式、プログラミング言語)・・・とのバランスの重要性を強調したいと思います。

また、この本で語られている阿部さんの「言語」への考察も一読に値します。言語をパブロフ、チョムスキー、ローレンツの3人の研究を参考として、生理神経学、言語学、生物学の3方向から言語そのものへとアプローチしています。決して意味難解な(当文章のような)ものではなく、イメージを伴った図式的な説明なのでとてもわかりやすい内容です。

私が一番興味をそそられた箇所は解説の養老さんと重複しますが「核シェルターの中の展覧会」です。
阿部さんの目から映る美術、音楽への考えが示されています。

ここでの論理展開はとてもおもしろいものですが異論があります。
必ずしもコピーの(代替可能な)利便性と作品の善し悪しやジャンル事の閉塞状態は関連しないということです。
またコピーの性質を伴った芸術品をシェルターへ持ち込むという展開についても、芸術の中で一番純度の高い詩をなぜ選ばなかったのだろうという疑問。またカメラの「時間を所有する」性質と絵画の時間を所有しうるという近似の関係。その説明のなさも何かもの足りません。この辺のカメラへの礼賛はちょっと理解できません。わたしだったらカメラさえ持っていかないでしょう。なぜなら永遠に現像されないカメラなどほっぽり出して自分の目をレンズと見なし脳に焼き付けるしかないからです。
私たちの遠い先祖がやってたように。あるいは砂浜に書いてみるのかもしれません。ラスコーのように洞窟に書くのはそのずっと先のことでしょう。

このテキストでのテーマはあくまでも「シェルターへもっていく」という選別の意味合いがあります。シェルターの中で富や財産価値としての絵画を選ばなかったのもわかるような気もします。

無人島に絵画はいらないという直感は阿部さんだけのものではないでしょう。生死と隣り合わせの中で果たして芸術の創世ではなく旧来の「財産価値」としての絵画が必要なのか?
古代ギリシャの文化を支えた奴隷制度の存在、中世ヨーロッパでの貴族や王侯といったパトロン、洗練された美術市場で高額に釣り上げられる現代美術。このような人の欲の象徴を排除しようというものかもしれません。仮に世界が終って以降、そこでは、旧世界で愛でられた遺物に過ぎない絵画に芸術としての存在価値はどの程度残されるのでしょうか。
芸術の存在価値は財産としての機能だけなのか?そのようなことを考えています。


| 速読家の読書感想 | 19:16 | comments(0) | |









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